top of page
  • 執筆者の写真kouseihogowith

追    悼

 かつて淨宝寺前住職、諏訪了我という人がいた。というのも老師は、平成の終わりとともに3月11日この世を去られた。享年85歳。満開の桜を見ることなくー。被爆死した亡き父の残した遺稿をまとめるなど疲労が引き金になったのだろうか、今となれば知る由もない。

 老師との出会いは、1997(平成9)年4月にさかのぼる。その頃、78歳になるひとりの無期刑仮釈放者が出所してきた。間もなく彼は、自らの犯罪被害者の供養がしたいと申し出た。「じゃ、どうしょうか?」。すると彼は、自室に上がって八折にした紙きれを持ってきた。そこには「広島市中区○○淨宝寺諏訪了我」と書かれていた。老師は、長年広島刑務所で教誨師としてボランティア活動をしていたのである。出所したのち被害者の供養がしたいと思えば、連絡しなさい」といわれたという。桜に少し早い季節だった。老師に電話すると「いいですよ、どうぞきてください」といわれ、巨漢の彼と二人、1キロメートル余りの道程を歩いて行った。着くと本堂で正信偈を共に唱え、老師の法話に聴き入った。終わって彼は、毎月供養してほしいと申し出た。老師は「いいですよ。これからは私が行きましょう」といわれた。それが機縁となって、更生保護施設付き教誨師、チャプレン制度がウィズ広島の「心のケア実施要領」の1つに組み込まれた。22年前の話である。

 老師は、後年体調を崩して住職を子息に譲られ、ウィズ広島での教誨も長坂大然師に託された。その後も季節ごとに施設利用者のために気づかいしていただき、ありがたかった…。ちなみに老師は1945(昭和20)年8月6日8時15分、爆心地に近い自坊で両親、姉を亡くされた「原爆孤児」だといわれた。老師の初心はここにあるのではないだろうか。ウィズ広島で無期刑等長期刑仮釈放者が社会になじむまで1か月間の中間処遇で自らの犯罪による被害者の慰藉慰霊を「処遇マニュアル」に組み込んだのも老師との出会いがあったからだ。深く銘記してお別れの言葉としたい。先生、ありがとうございました。

                理事長 山 田 勘 一

閲覧数:93回
bottom of page