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  • 執筆者の写真kouseihogowith

ウィズ広島三題噺(ばなし)

噺一題 更生保護施設の眼/ピアサポーターの眼


 「私も、玄関ドアの紙を見て2~3回、パス(引き返し)たんですよ」。コロナ禍拡大の恐れがあった3月下旬、6月上旬、正面玄関前に貼り出したコロナ禍関連掲示の文言にふれて退所した後、「カフェで支援」ピアサポーター(同じような立場に立つ支援者)ダイさんの言葉でした。

 コロナ禍から在所者や施設を守ろうとする気持ちがあふれ、結果的に退所した人も遠ざけていたのではないか。職員の心労を思いながらも、そのとき、ひそかに思ったものです。ダイさんが目にしたのは、どちらだったか。3月下旬掲示文面は、「来所を制限します」という、あいそのないものでした。それが「新型コロナウィルス感染予防のためウィズ広島施設への来所を制限します。御用のある方は入口右手のインターフォンで事務室までご連絡ください」にかえ、さらに下の掲示文面に変えたのは6月上旬。

 ダイさんのことばに誘われるように「退所して一人暮らしをしていると、外へ出るのが億劫。ウィズに行きたい、でも一人で行動するのはためらいがある。行きたいけど私はウィズにとって部外者ですか ? 」ピアサポーターのウエさんもいいます。先日のフォローアップ支援スタッフ連絡会のときのことです。ウィズカフェに部外者はいません。在所者、退所者分け隔てなく、カフェではみんな同じメンバーです。その気持ちを日頃に出したいと思いました。



噺二題 取材記者の眼/カンケイシャの眼


 猛暑疲れのなか、新聞を読んでいて「女性刺殺 自称15歳を逮捕」という2段抜きの記事が目に入りました。少年院を仮退院した少年の殺人容疑事件のことです。そのなかに捜査関係者のことばとして「少年院から更生保護施設に移った」。その後無断でいなくなり、施設が県警に行方不明者届を提出していたというものです。なにげない取材記者の文章です。でも「更生保護施設関係者」の眼から見ると複雑です。2つ視点があるからです。2つの視点、1つは想像して感想を述べてみたいと思います。

 ちょっと回り道をします。以下は、ウィズ職員が新型コロナウイルスに感染したとき/マニュアル①から下記「感染の事実を公表するための配慮」の部分です。

 マニュアルを作成したとき,職員の感染拡大を防ぐのは、公表は法人の社会的責任だとしました。しかし、感染した職員のプライバシーの保持という一面があります。また、公表のタイミングを失すると不正確な情報が広がり、かえって混乱しかねません。感染者への二次被害、社会秩序の混乱というリスクもあります。現実の運用は個別性と慎重考慮のバランスが必要です。


 新聞記事のことに戻ります。自称15歳の少年は、事件を起こした2日前に少年院から更生保護施設に移った後、無断でいなくなったとあります。更生保護施設では、「無断退去」といいます。私たちの施設で2019年4月1日~2020年3月31日までの1年間に無断退去した利用者は退所者159中8人でした。これを多いと思うか、少ないと思うか意見が分かれるところです。でもこれが現実です。ここでは、これ以上のやりとりはやめます。ただ経験的にいえるのは、15歳の少年が少年院に入るという現実、仮退院になっても親のもとに帰れないという現実を考えるとき、非行の内容、少年の資質、親もとの家庭環境などに複雑な事情があるように思います。それらを知ったうえで、この15歳の少年を引き受けた更生保護施設の「勇気」に関係者として敬意を表します。

 更生保護施設が再非行、犯行現場なら別ですが、「無断でいなくなった場所」です。これを広く公表することが人の知る権利、社会正義にかなうのか、「○○区○○町」もしくは「施設」では不十分だったか、取材記者の中立的、中間的態度のありように、もやもやしたものを感じます。その後の記事を期待します。



噺三題 アドボカシー/虎落笛(もがりぶえ)


 今、私の頭にあるのは、アドボカシーということ。受け入れた利用者の心の声を聴くこと。アドボカシーとは、子どもアドボカシーというとき、「子どもの声を運ぶこと」(イタリア)。「子どものマイクになること」(イギリス)といいます。いま岩波ブックレット『子供の心の声を聴く』を読み始めています。更生保護施設でアドボケイトの役割をだれが担うのか? 女性を刺殺した少年の心の風景に関心があるからです。

 そんなとき、浜松在住の友人から手紙が届きました。ニューレターウィズ広島net=互縁41号の私の文章、「コロナ時代を生きる、更生保護施設」に引用した友人の一句「使わねば喉(のんど)錆びゆく虎落笛」に関するものです。友人のたよりの一端に同人誌4月号掲句のコピーから拾ったものです。虎落笛の読みがどうしても思い浮かばず、季語・春の索引から探したがわかりません。このたびの便りは、その教えでした。虎落笛は、ばもがりぶえ…冬の激しい風が柵(さく)や竹垣に吹きあたって発する、笛のような音。季・冬。定義と例句を掲げ、丁寧に教えてくれました。そういえば…、深い記憶の淵の奥に薄い光が差し、ゆるやかに記憶にあった「もがりぶえ」が立ち上がります。ヒュー、ヒューという遠く、なつかしい記憶です。友人には、昨年の冬に入る前の秋、晩年、発語できないまま、もどかしく生きた兄を見送っています。その痛恨の一句に「秋風や焼けて失せたる喉仏」があります。ニューレター掲句は、これにつづく友人の声だったのです。俳句、連句を離れて私の時は流れています。コロナ禍と心境と結びつけたのは、まさに牽強付会(けんきょうふかい)。自分に都合のいいように、無理に理屈をこじつけること…でした。それにしても友はもつべきです。ありがたい示唆でした。

2020/09/23 Kan

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